選手の活躍を裏で支えるメディカルスタッフの一員として
2024年、夏、パリ。4年に一度の平和の祭典パリ2024パラリンピック競技大会が開幕した。大会は、168の国・地域と難民選手団を合わせて史上最大規模の約4400人の選手が参加し、8月28日から9月8日までの12日間にわたり、22競技・549種目が行われ、多くの日本を代表するパラアスリートたちが活躍した。
その大きな舞台の裏で日本の選手を支えていたのが、日本代表メディカルスタッフチームだ。メディカルスタッフは医師3名、看護師3名、トレーナー3名の計9名で構成され、選手の体調管理や服薬指導、怪我など医療を必要とする全てに対応する。その中のひとりとして活動したのが大分中村病院の看護師、藤尾だった。
メディカルスタッフは開催約1週間前から選手村に入り、日本選手団の宿泊棟の一部を医務室として利用し、診察室や医薬品、資機材などの設置・準備を行い、開幕までに備えた。大会期間中の医務室の診療時間は8時から21時まで。21時以降はオンコール体制をとり、24時間緊急対応ができるように選手村で過ごす。
そんな万全の体制の中、藤尾は慣れない環境の変化などで体調を崩す選手や競技スタッフのケア、競技中の怪我の処置など精神面・肉体面のサポートに尽力した。
特に気を遣うのは薬の管理やドーピングの予防。幅広い知識やきめ細かい管理が必要となるため、選手の情報を事前に把握することは欠かせない。
「お薬がちゃんと管理できてなかったら、大会中に病状が悪化することも考えられるので、特に注意する必要がある選手をリストアップするなど、情報共有に努めています。ドーピングにも注意を払います。ネイルさえもドーピング検査に引っかかる場合もあるんですよ」。
多種多様な競技の選手と接する中、現場で心がけているのは「一人のアスリートとして向き合う」こと。「どうしても障がいとつくじゃないですか。接し方や声のかけ方は気をつけていますが、そういった目線では絶対見ないようにしています」例えば全部手助けする訳ではなく、車椅子から処置台に移動するときも、アスリートが自分でできる場合は自分で行うように促す。
そんな藤尾は本大会をこう振り返る。
「一番の喜びは、選手やスタッフたちとの出会い。選手と時間を一緒に共有できて、メダルは届かなくても、みんなが勝者でした」。
経験もスキルも未熟な20代、初めてパラスポーツに出会う
藤尾が看護師になったのは看護専門学校を卒業してすぐ。身内に医療関係者が多い環境の中で育った藤尾にとって看護師は身近な存在であり、子供の頃から大人になったら看護師になって働くという夢を自然に持つようになった。
高校卒業後は医療専門学校で看護を学び、看護師の叔母からの推薦を受け、大分中村病院への就職を決めた。それから30年、現在回復期リハビリテーション病棟で働く藤尾の帯同看護師としての今につながる転機が訪れたのは、入社10年目のこと。
大分中村病院創設者、故・中村裕が提唱したことから始まったフェスピック(※1)、2006年開催のフェスピッククアラルプール大会。大分中村病院の看護師2名に声がかかり、依頼を受けた。
現在のアジアパラの前身となるフェスピックだが、当時はアジア圏だけの小さな大会。藤尾が任されたのは、競技場より少し離れた場所で開催されたセーリングチームの救護だった。
「パラスポーツの知識もスキルもなかったんですが、セーリングはメインの競技場より離れた海沿いで行われるので、もし何かあれば本部のドクターに連絡するという体制で競技会場には私と通訳さんの2人だけでした。ほかの競技を知らずになんとなく終わって、楽しかったという印象だけ残りましたね」と当時を振り返る。
それがパラスポーツの初めての出会いとなった。
その後、パラスポーツは競技人口の増加や大会の規模の拡大など、少しづつ発展していく。
その傍ら、藤尾は大分中村病院の外科、脳外科、手術室、集中治療室など、様々な現場で経験を重ね、救急看護専門の認定看護師やDMATの資格も取得し、自身も成長を続けていった。
帯同看護師として再び参加したのは、2018年にインドネシアで開催されたインドネシア2018アジアパラ競技大会。「国際大会での経験」が帯同看護師の公募条件の一つだった本大会に日本代表の医療チームの一人として任命された。パラスポーツとの出会いから10年以上経ち、「車椅子などパラスポーツの道具が軽量化するなど多様に進化し、時代の変化を感じた」という。
看護師として大きく成長した藤尾はメディカルスタッフとして帯同し、日本選手団の医務室の一員として様々な競技の選手の対応に注力した。「メディカルスタッフとして帯同して多種多様な選手との交流もできたし、たくさんの競技を見ることもできて、パラスポーツの楽しさや魅力を感じました」。
選手たちが数々の困難を乗り越え、創意工夫し競技に挑む姿に魅了された藤尾は、次の2020年東京2020パラリンピック競技大会へと心が動き始めた。
限界に挑む選手の姿はきっと誰かの力になる
2021年コロナの影響で1年延期された東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会は記憶に新しい。その日本代表メディカルスタッフの中に藤尾の姿はあった。これまでの大会とは打って変わって日本がいかに恵まれているかを実感したという東京2020大会。
「選手村の中にはMRIを撮れる病院が設備され、医療体制もきちんと整っていました。水問題も言葉の壁もないですし、医薬品も何か足りなければすぐ調達できる環境だったので良かったですね。体調を崩す日本の選手もほぼいなくて、競技中の怪我くらいで日本選手団の医務室は穏やかでした」と当時を思い返す。
ただ一つ残念だったことは、観客がいないということ。
「無事に終わった安堵感はあったんですが、いまひとつ達成感を感じられなくて。立派な環境と素晴らしい選手たちがいる中で、無観客で終わった大会に虚しさのような感覚がありました。有観客の中で行われるパラスポーツがどういう風なのか、自分の目で焼き付けたいなという想いも強かったですね。あと東京2020大会はメディカルスタッフのチームワークも良くて、みんな想いを1つに行動していました。なので『次は3年後、パリで会いましょう』といった気持ちでお別れしたんですよ」
そのときの心残りとチームへの想いが2024年のパリ2024パラリンピック競技大会へとつながっていった。「パリではいくつか競技を見に行かせていただいたんですけど、全部の競技会場が満員で盛り上がり、観客のマナーも良かったです。大会を支えたボランティアの方の温かいおもてなしも体験でき、愛に包まれた大会でした」。パリ2024パラリンピック競技大会では今後の課題も見えたが、達成感であふれていた。
数々のパラスポーツ競技の大会に関わってきた藤尾にとって、パラスポーツはどのような意義があるのか。「パリの会場で応援している中で“パラリンピックは多様性のある社会の実現につなげられる力がある”というのを、他の観客の姿を見て感じるものがありました。限界に挑む選手たちの姿を一人でも多くの方に見てもらって、何かを感じて自分の中で何か変わる。障がいがあるなしに関わらず、みんなが自身の力になることがパラスポーツの意義となっていくのかなと思います」。
患者のウェルビーイングとパラスポーツの発展を目指して
藤尾は現在大分中村病院の回復期リハビリテーション病棟で看護にあたる。
パラスポーツの経験を通して感じた “見守る大切さ”や、残存機能を活かすサポートは、回復期リハビリテーション病棟の現場で役立っているという。これまでを振り返って思うことは、健常者も障がい者もなく、誰もが等しく平等だということ。「患者さん1人1人に平等な視点を持って看護をしていきたいと感じています」。
回復期リハビリテーション病棟に配属される前は、急性期の現場が多かったという藤尾は、大分中村病院のリニューアルとともに、回復期の看護師として様々な患者と向き合う中で、決意も新たにした。「患者さん1人1人がバックグラウンドやニーズが違うので、患者さんやご家族が望まれていることを最後まで人として寄り添い、向き合ってサポートしていける人間でありたいなと思います」。
医療現場は人間同士が関わっていくことが求められる場所という藤尾が患者の幸せを考えた時に思うのは「求める場所に帰れる」こと。回復期リハビリテーション病棟では、元々住み慣れた自宅に帰りたいという患者も多いが、結局帰れなくなる現実に直面することもある。どんな状況でも他職種と連携して患者が希望する場所に帰るように務め、本人、家族、ケアする側みんなが幸せになれることを思う。
藤尾は大分中村病院で看護師として活動する傍ら、東京2020大会で同じ医療チームだった医師の誘いで「JPA 一般社団法人 日本パラ陸上競技連盟」の医事委員会サポーターも務めている。
医療チームの看護師のスキルや経験値のばらつき、メディアで取り上げられる機会の少なさなど、パラスポーツにはまだまだ課題が残る。今後、実際の現場経験をつんだ帯同看護師の育成など、今後も様々な形でつながりを持ち、パラスポーツに関わっていきたいと願う。そのまっすぐな想いは、パラスポーツの確かな未来へつながっていく。
※1
かつて存在したアジアおよび太平洋地域の障がい者スポーツの総合競技大会。社会福祉法人太陽の家の創設者、中村裕が提唱したことから始まり、現在のアジアパラ競技大会の前身となる。