創設者・中村裕について

大分中村病院は、日本における『障がい者スポーツの父』と称され国内外のアスリートたちから今なお親しまれる故・中村裕により1966年(昭和41年)12月10日に設立されました。

「国内はもとより、世界の身体障がい者特に発展途上国の人々が一般市民と共に生き、身体障がい者という言葉がこの世からなくなること」に生涯を賭け取り組んだ中村裕の先駆的偉業は「日本の障がい者福祉の歴史に大きな足跡を残した」と讃えられています。

創設者・中村裕

中村裕の略歴と大分中村病院創設の経緯

昭和27年九州大学医学専門部卒業。当時日本では未開の分野であった医学的リハビリテーションの研究に着手。昭和35年「リハビリテーション-医学的更生指導と理学療法」発刊。 同年、英国ストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターに留学。ルードヴィッヒ・グッドマン博士に出会い、生涯に関わる多大な影響を受けることになりました。

昭和39年東京パラリンピックに日本選手団長として参加。この時、外国選手が職場から参加したのに対し、日本選手の殆どは入院中の患者でした。この“違い”に衝撃を受けたことが、障がい者の働く場「太陽の家」設立の契機となりました。また、この時抱いた『患者の社会復帰にはリハビリテーションを積極的に行う病院が必要である』との考えから大分中村病院を創設しました。

1984年(昭和59年)7月、中村裕は57歳で急逝しましたが、創設の志「救急医療からリハビリテーション、更に社会復帰」が当院から滅することはありません。

大分中村病院の未来への挑戦-創設の志と社会貢献-

現在、大分中村病院は「救急医療からリハビリテーション、更に社会復帰」を継承しつつ、時代のニーズをキャッチし、救命・治療・QOLに全力を投じ、地域に密着した中核病院として地域医療に貢献しています。
その一方で、中村裕の信念を引き継ぐ2法人、「大分中村病院」⇔「社会福祉法人 太陽の家」の連携による最善の福祉事業の構築を目指しています。高齢化が加速する21世紀に対応し、障がい者支援と同じように高齢者支援も視野に入れたネットワークの実現に取り組みます。

中村裕 関連サイト

中村 裕について、より詳しい情報はWEBサイトをご参照ください。

社会福祉法人 太陽の家

大分中村病院 沿革

1966年(昭和41年)12月

医療法人恵愛会(別府市)の分院として、大分市大手町にて開院、許可病床 65床

1968年(昭和43年)3月

許可病床80床となる

1970年(昭和45年)1月

許可病床120床となる

労働省より「リハビリテーション医療実施施設」として指定を受ける

1970年(昭和45年)9月

医療法人恵愛会(別府市)より分離独立

1971年(昭和46年)4月

許可病床150床となる

1975年(昭和50年)1月

許可病床200床となる

1979年(昭和54年)10月

身体障害者福祉法第19条の2の規定による更生医療を担当する医療機関としての指定を受ける

1980年(昭和55年)7月

許可病床数240床となる

1982年(昭和57年)1月

許可病床260床となる

1984年(昭和59年)7月

創設者中村裕死去

副院長の畑田和男が院長に就任

1997年(平成9年)4月

回復期リハビリテ-ション病棟を新設

2000年(平成12年)4月

中村太郎が院長に就任

2005年(平成17年)9月

ER Nakamura(救急救命棟)開設

2013年(平成25年)11月

社会医療法人に認定

2014年(平成26年)10月

地域包括ケア病棟(27床)を運用開始

2016年(平成28年)9月

回復期リハビリテーションを58床、地域包括ケア病棟44床に増床

2016年(平成28年)12月

創立50周年を迎える

2019年(平成31年)4月

七森和久が院長に就任

2019年(令和元年)7月

地域包括ケア病棟(50床)に増床

2020年(令和2年)3月

新病院計画を発表

2020年(令和2年)4月

DPC病院に移行

2023年(令和5年)2月

大分中村病院訪問看護ステーションを開設

2024年(令和6年)1月

新病院移転開業(HCU4床・一般急性期116床・地域包括80床+回復期60床)